共通教育科目「基礎教養1」の「世界の思想」

2007年度1学期水曜4時限「認識するとはどういうことか?」

                              第5回講義(2007/05/16

 

      §4 知識とは何か

    ――ゲティア問題――

 

 

1、知識とは何か?

(知識とは何か、議論しながら考えて見ました。)

 

 0、事実

1、「考えられたこと」「思想」

  1−1 真理値を持たない思想(詩や小説の文、命令、約束などの発話)

  1−2 真理値を持つ思想

     1−2−1 偽であると思っている思想     「1+2=4」

     1−2−2 真であると思っている思想(信念) 「「1+2=4」は偽である」

         1−2−2−1 ただの信念(*1)

         1−2−2−2 正当化された信念(知識)

          1−2−2−2−1 蓋然的な知識

          1−2−2−2−2 確実な知識 (*2)  

(*1)我々は、<何の根拠や理由や原因もなく何かを信じる>ということはないように思われる。たとえば、占いで明日が晴れだと信じている人がいるとすると、その人は占いを信じており、それにもとづいて「明日はあれだ」を信じているのである。その人にとって、占いは、根拠となりうるものなのである。つまり「ただの信念」は存在しない。

(*2)「確実な知識」というものは、ミュンヒハウゼンのトリレンマによれは存在しない。

 

 

2、ゲティア問題

  Edmund L. Gettierの論文 ‘Is Justified True Belief Knowledge?’in “Analysis” 23 ( 1963)pp. 121-123 は、http://www.ditext.com/gettier/gettier.html に掲載されている。それを下に訳した。

 

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正当化された真なる信念は、知識なのか?

エドムント・L・ゲティア著
   (著作権を侵害してはいけないので、以下を省略します。
    受講生の方は、WEB CATの講義資料に掲載していますから、ご覧ください。)

 

(1)解説

古典的な知識の定義(上述のa,b,c,)は、知識であるための必要充分条件であると考えられてきたが、ゲティアは、それが充分条件とはいえないことを反証例によって示した。いわゆる「ゲティア問題」(だれがそう呼び出したのだろうか?)とは、「ゲティアが示したような反証例を適切に排除できる<知識の必要充分条件>とは何か」という問題である。

 

 では、この事例がどうして古典的定義にたいする反証例になっているのかを解説しよう。

 

まず、ゲティアは、古典的定義における「・・・信じることにおいて正当化されている」という用語を、次のように定義する。

 

「第二に、どのような命題Pに関しても、もしSPを信じることにおいて正当化されており、PQを含んでおり、SPからQを導出し、Qをこの演繹の結果として受け入れるならば、その場合には、SQを信じることにおいて正当化されている。」

 

仮言命題の前件は後件の充分条件である。ゆえにこの文は、次のように言い換えることができる。

  <SQを信じることにおいて正当化されている>といえる充分条件は次の通りである。

  (1)SPを信じることにおいて正当化されている

  (2)PQを含んでいる

  (3)Sは、PからQを導出し、Qをこの演繹の結果として受け入れる

 

ゲティアの挙げている反例は、これとどう関係するだろうか。

ケース1を考えよう。スミスは、社長から聞いたので信念dを正当化されていた。

d、ジョーンズは、その仕事を手に入れる男であり、ジョーンズのポケットに10個のコインを持っている。

このdからつぎのeが帰結する。

e、仕事を手にする男は、彼のポケットに10個のコインをもっている。

ゆえに、つぎの3つが成り立つ。

(1)スミスはdを信じることにおいて正当化されている

(2)dはeを含んでいる

(3)スミスは、dからeを導出し、eをこの演繹の結果として受け入れる。

ゆえに、<スミスはeを信じることにおいて正当化されている>。

 

それゆえに、実際にはスミスが仕事を手に入れ、たまたま彼のポケットにも10個のコインがあったとき、スミスについて次のことが成り立つ(と、ゲティアは主張する)。

(i)(e)は真である。

(ii)スミスは(e)が真であると信じている。

(B)スミスは、(e)が真であると信じることにおいて正当化されている。

知識の古典的定義によれば、この3つを満たしたならば、<スミスが(e)が真であることを知っている>ことになる。しかし、我々はそう考えないだろう。したがって、知識の古典的定義は知識の充分条件にはなっていない。

 

2、ゲティア論文の検討

(1)疑問点1:スミスの信念(e)は本当に正当化されているのだろうか?

<スミスが、社長からジョーンズが選ばれることを聞き、ジョーンズのポケットの中のコインを数えていたとき、スミスにとって、信念dが正当化されていた>と考えることを認めるとしよう。しかしこれを認めたとしても、スミスは知らないのだが、スミスが選ばれることになり、またスミスのポケットの中にたまたま10個のコインがあったとしても、<スミスは、(e)が真であると信じることにおいて正当化されている>と、我々は言えないのではないだろうか。

 なぜなら、(iii)が主張することは、<スミスは、(e)が真であると信じることにおいて正当化されていると思っている>ということではなくて、<スミスは、(e)が真であると信じることにおいて実際に正当化されている>ということだからである。スミスの信念(e)が実際に正当化されているためには、それが前提とする信念(d)が正当化されていなければならない。この信念(d)は、正当化されているのだろうか。

この信念が正当化されているためには、別の正当化された信念から導出されなければならないが、そのような別の信念とは何だろうか。ここでは、それが言及されていない。もし、それが言及されたとしても、それが正当化された信念であるためには、それがさらに別の正当化された信念から導出されなければならない。これは、以下同様に無限に反復するだろう。

 

 つまり、我々はスミスの信念(d)が正当化されているという場合を想定し得ない。したがって、ゲティアの知識の定義からすると、どのような信念も知識とは成りえない。

この事例について言えば、古典的な定義でいう条件3が満たされておらず、この定義に基づいて、スミスの信念(e)は知識ではないということになる。従ってこの例は反証例になっていない。

 

(2)疑問点1の再説

ゲティアによる正当化の定義(あるいは、古典的な正当化の定義というべきかも知れない)は、適切なものだと言えるのであろうか。それは、つぎのような定義であった。

SQを信じることにおいて正当化されている>といえる充分条件は次の通りである。

  (1)SPを信じることにおいて正当化されている

  (2)PQを含んでいる

  (3)Sは、PからQを導出し、Qをこの演繹の結果として受け入れる

Qが正当化された信念であるためには、別の正当化された信念Pに基づかなければならない。そうすると、別の正当化された信念Pもまた、さらに別の正当化された信念に基づかなければならないだろう。かくして、無限遡行に陥る。つまりこのような意味の正当化では、我々はそもそも「正当化された信念」をもつことが不可能である。したがってまた、古典的な定義の「知識」を持つことも不可能である。これは、「古典的基礎づけ主義」が陥った無限遡行である。これは「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」が指摘した問題でもある。

 ゲティアは、<知識の古典的な定義は、知識の定義として緩すぎる、つまり知識の十分条件となっていない>と主張する。しかし、この定義はむしろ知識の定義として強すぎるのではないか。これを定義にすると、我々は知識を持たないことになってしまう。

 

 

(3)疑問点2:スミスの信念(e)は真ではない

ケース1におけるスミスの信念(e)とゲティアが真だという(e)は、文は同じであるが、発話の内容(「直接指示の理論」で言う「外延」)は異なる。前者では、「仕事を手に入れる人」はジョーンズを指示しているが、後者では、スミスを指示しているからである。ところで、意味や真理値をもつのは、文ではなくて発話であろう。ゆえに、信念は、文ではなく発話によって表現されるものと考えるべきである。スミスの信念()と真の知識である(e)は、「内容」はおなじであるが、「外延」がことなる。つまり、「評価の状況」がことなる。また、たまたま「内容」が同じになるが、発話のコンテクストが異なるといえるようにおもわれる。そういえるとすれば、これは「内容」は同じであっても、別の発話である。ゆえに、別の信念である。スミスの信念(e)は真ではない。ゆえに、この例は、反証例になっていない。